バーブ教徒の乱は、イラン地域で1848年に起きた反乱です。
19世紀のど真ん中、世界は激動の時代で、イランをはじめアジア諸地域はヨーロッパ列強の争いの中で揺れています。
教科書では特別大きく取り上げられる反乱ではないですが、アジア諸地域の動揺を象徴する出来事の1つとしてバーブ教徒の乱に注目し、どんな出来事だったのかを見てみたいです。
ブログ主があんまり詳しくないので、参考書などをひも解きながら理解したいというのもあります。
どうか付き合ってくれたら幸いです。
まず山川の用語集を見てみる
まず始めに世界史受験生のバイブル(?)、山川の用語集を見てみましょう。
バーブ教徒の乱 1848~52
全国歴史教育研究協議会 編 (2023年) 「世界史用語集」山川出版社 より引用
イギリスやロシアに屈服し、外国勢力の支配が強まるイランで、中小商人や貧農たちがおこした反乱。指導者サイイド=アリー=ムハンマドが1850年に処刑されたが、その後、52年に国王暗殺未遂事件がおこると、政府は徹底した弾圧に踏みきり、バーブ教は壊滅的打撃を受けた。
この文章から読み取れることを書き出して見ましょう。
①「バーブ教」教徒の反乱である。
②当時のイランは「イギリスやロシアに屈服し、外国勢力の支配が強まっていた。」
③「中小商人や貧農たちがおこした」反乱である。
④反乱の指導者は「サイイド=アリー=ムハンマド」。
⑤「国王暗殺未遂事件がおこると、政府は徹底した弾圧に」踏みきり、鎮圧された。
これらの事実を中心として、「バーブ教徒の乱」を見てみましょう。
バーブ教
バーブ教徒の乱はその名のとおり (当たり前ですが) 「バーブ教」という宗教の教徒による反乱です。
バーブ教とは、イスラム教の流れをくむ宗教です。
「流れをくむ宗教」と言って「イスラム教の中の一派」と言わないのは、バーブ教がイスラム教の一部であるかどうかは微妙なためです。
Wikipedia様には下記のように書かれていました。
十二イマーム派シーア派の一派シャイヒー派から起こったが、のちにシャリーア(イスラーム法)の廃止を宣言するなどしたため、一般にはイスラームの枠外とされて1850年代末には徹底的弾圧を受けた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%96%E6%95%99
また山川の用語集では、バーブ教側がイスラム教からの分離をはかっていたということが書かれています。
またネット検索で「バーブ教」と検索すると「バーブ教はシーア派イスラムの分派である」という情報もたくさん出てきます。
いずれにしてもバーブ教はイスラム教の正統な一派というよりはグレーもしくは離脱した派というのがよさそうです。
バーブ教の開祖はサイイド=アリー=ムハンマドという人物です。
この人についてはのちほど改めて取り上げます。
バーブ教が開かれたのは1840年代です。
同じくらいの時代に、中国 (当時は清) でアヘン戦争、日本では水野忠邦による天保の改革が行われたりしています。
バーブ教の「バーブ」とは何でしょうか。
「バーブ」とはアラビア語で「門」という意味です。
バーブ教の開祖サイイド=アリー=ムハンマドはみずからを「バーブ (門)」であると自称しました。
なんの門かというと、信者とマフディーとのあいだの門です。
マフディーとは、アラビア語で「救世主」のことです。
「自分は人と救世主 (その先には、神もいる) との間をつなぐ門である」というわけです。
これがバーブ教の中核的な教義です。
バーブ教はなぜ民衆からの支持を得たのか?
それは、後で改めて取り上げますが当時のイラン社会、イラン政治に対して民衆が強い不満を抱いていたからにほかなりません。
バーブ教はこうした民意に応じる形で出現し、信徒を大量に獲得していきました。
このように腐敗した政治や社会に対する民衆の不満に呼応して信徒を獲得し、反乱に至った例としては、ほかに中国 (当時は清) の太平天国の乱などがあります。
当時のイラン
当時のイランはどんな情勢だったか見てみましょう。
時は19世紀まっただ中です。
19世紀の世界は帝国主義全盛の時代です。
イギリス、フランス、ロシアを中心として、世界各地へ植民地の拡大運動を展開しています。
イランはこれら列強の進出に押されビビっている状態です。
イラン周辺に主に進出してきているのはイギリスとロシアの2国です。
イギリスはインド地域に広大な植民地を持っています。
インドから北西方向にイランがあります。
またインドとイランの間といってもいい位置にアフガニスタン地域がありますが、ここにイギリスは1839年~1841年ごろに第一次アフガン戦争で侵略しています。
イギリスはインドやアフガニスタンを含めた南からイラン地域への進出を狙っているのです。
ロシアは南下政策を行っています。
南下政策とは不凍港 (真冬でも海が凍らない港) の獲得をめざしてロシアが南へ南へと侵略する政策です。
イランはインド洋に面していますがイランの港はもちろん真冬でも凍りませんのでロシアが欲しがっています。
ロシアは北からイラン地域への進出を狙っているのです。
イラン地域は当時ガージャール朝という国が支配していました。
ガージャール朝は、1785年におこり、1925年までつづく国で、首都はテヘランという都市です。
テヘランは現在のイランの首都でもあります。
ガージャール朝はトルコ人の王朝です。
トルコ人とは、大昔はモンゴル高原に居住していましたが時代とともに中東地域などに広く分布するようになった民族で、武闘派でトルコ語を話します。
トルコ人が支配階層で、ペルシア人やアゼルバイジャン人などいろいろな民族が被支配階層だったようです。
ガージャール朝は封建制の国でした。
封建制とは、地主階級が領有する土地を介してそこの人民を支配統治する国家形態です。
中世的で古い国家形態です。
トルコ系の王が抑圧的に支配する国という感じだったようです。
ガージャール朝は建国当初の時期こそブイブイいわせていましたが、ほどなくロシアとイギリスからの圧力によって弱腰になっていきます。
代表的な出来事としては、1826年~1828年のイラン=ロシア戦争でロシアにボコボコにされて、結果トルコマンチャーイ条約という不平等条約を結ばされます。
(トルコマンチャーイ条約は高校世界史でも覚えさせられます。)
トルコマンチャーイ条約の重要な点はガージャール朝が持っていたアルメニア地域をロシアに奪われたことです。
アルメニア地域は、黒海とカスピ海の間あたりの地域ですが、北にカフカス山脈という、富士山よりも全然高い山脈があります。
カフカス山脈を越えるのは一大事なのでロシアはアルメニア地域には侵攻して来ないだろうというのが暗黙の認識でしたが、イラン=ロシア戦争とトルコマンチャーイ条約によってついにカフカス越えしてアルメニアまで進出してきたという事実が当時中東世界を震撼させました。
同時にこのトルコマンチャーイ条約に代表されるロシアやイギリスに対するガージャール朝政府の対応の無策ぶりはイラン国民に深い失望を与えました。
「列強に好き放題やられやがって…!!」という感情です。
しかも前述のようにガージャール朝は封建制という古いタイプの抑圧的な支配で、国内の近代化は遅れ、列強に対抗するための軍事力も生産力もないばかりか、政治には腐敗が蔓延して賄賂などが横行している有り様でした。
中小商人や貧農
上記の状況に、貧しい民衆は圧迫されて不満が溜まりきっていました。
「民衆」をもっと具体的に言えば、「中小商人や貧農」たちです。
「封建制」の国では支配階層と被支配階層がハッキリと分かれています。
支配階層は地主であり広い土地を持っています。
被支配階層は地主の持つ土地で農業に従事し、ひたすら働いて収穫を上げては、地主に献上します。
基本的に農民に現代のわれわれが持つような色々な選択の自由はありません。
封建制とはそんな社会です。
中小商人もまた支配階層に対して弱い立場でした。
商業によって都市経済に貢献しているにもかかわらず、政治に口をはさむ力は持っておらず、政府の動向にふりまわされる立場です。
また、社会的混乱によって治安が悪化したことによって盗賊に狙われるといったこともあったと思われます。
いわば中小商人や貧農たちは鬱屈した現状からの解放を求めていました。
まさに救世主 (マフディー) の力を求めていたのです。
そんな中小商人と貧農たちの間で蔓延した不満感情に、バーブ教の教えが非常なフィットをしました。
バーブ教によって引き寄せられた中小商人や貧農たち群衆が無能なトルコ人支配階層に対して反旗を翻したのがバーブ教徒の乱です。
サイイド=アリー=ムハンマド
バーブ教の開祖であり、バーブ教徒の乱の指導者でもあったのが、サイイド=アリー=ムハンマド (1819年~1850年) という人物です。
生没年からわかる通り、結構若い人物ですよ。
サイイド=アリー=ムハンマドはイランの中流商人の息子として生まれました。
当初は商人になるべく商業教育を受け育てられます。
1841年ごろに現在のイラク中部にあたるカルバラーという都市にて、イスラム教シーア派の教説を学んだことにより、宗教人への道に向かっていきます。
1844年にサイイド=アリー=ムハンマドはみずから突如「神の呼びかけ」を受けたと言って、バーブ教を創始しました。
(宗教家として目覚めるのってどんな気分なんでしょうね。)
バーブ教徒の乱が勃発するのが1848年ですので、バーブ教創始からわずか4年後です。
バーブ教が非常に急速に発展したことがわかります。
サイイド=アリー=ムハンマドはバーブ教徒の乱の途中、1850年に銃殺され死亡します。
逆に言うとサイイド=アリー=ムハンマドが死亡した後もしばらくの間バーブ教徒の乱は続いたということです。
なぜならバーブ教徒の乱はたんなる宗教戦争ではなく、民衆の支配階層に対する不満による反乱だったからです。
国王暗殺未遂事件 → 徹底弾圧
バーブ教徒たちがイラン各地で蜂起を行い、バーブ教徒の乱はイラン全国規模の反乱となっていきます。
Wikipediaの「バーブ教」のページでは、下記の3つの蜂起が紹介されています。
- シェイフ・タバルスィー蜂起
- ネイリーズ蜂起
- ザンジャーン蜂起
上記3つの蜂起の場所を地図などで確認すると、「確かにイラン全国規模の反乱だったんだな~」ということがわかると思います。
1852年8月15日に転機となる事件が起こります。
ガージャール朝イラン国王 (シャー) のナーセロッディーン・シャー (1831年~1896年)が、バーブ教徒によって暗殺未遂されたのです。
これによって、バーブ教はガージャール朝政府から完全に敵視されました。
政府は徹底的な弾圧と迫害を開始します。
バーブ教徒の本体はオスマン帝国領バグダードへ追放され、国内のバーブ教はほぼ壊滅状態となりました。
またこの弾圧による、バーブ教徒の犠牲は4万人にのぼると言われています。
信徒たちはこの弾圧に参って戦闘的方針をやめてしまいました。
そしてそのままバーブ教徒の乱は1852年のうちに鎮圧へと至りました。
なお、国外に追放されたバーブ教徒のなかから、バーブ教の分派であるバハーイー教という宗教が誕生しました。
バハーイー教はバーブ教から分派したものの男女平等や世界語の採用などをとなえるだいぶバーブ教からは発展した宗教です。
現在世界に500万人~800万人の信者が居ると推定されています。
バーブ教はバハーイー教よりかなり廃れましたが、Wikipediaによると今もイランを中心に1000人~2000人の信者が居るとされているそうです。
歴史的意義
バーブ教徒の乱以降の流れを概観してみましょう。
バーブ教徒の乱の途中からナーセロッディーン・シャーという人物が国王となり、その後50年間近く在位しました。
ナーセロッディーン・シャーの治世初期では財政・軍事・教育にわたる近代化政策を実施し、列強に対抗できる国づくりをめざしました。
しかしこの改革で列強の圧力に有効に対抗することはできませんでした。
保守的な人々の抵抗により改革派は孤立してしまったようです。
1850年代のイギリスとの戦争で敗北した結果、イギリスに対して不平等な利権を認めさせられ、政治的にも経済的にもイギリスの従属的な立ち位置になります。
とくに、タバコの原料買い付け、加工、販売、輸出にわたる独占的利権をイギリス商人に認めたことが、ガージャール朝国内の商人や職人をはじめとした民衆に大きな怒りを与え、1891年~1892年にタバコ・ボイコット運動が勃発します。
これは聖職者などが民衆にタバコの消費を控えるよう大規模に促した運動です。
当時のイランでタバコは重要な嗜好品 (イスラム教徒はお酒が飲めないので、代わりにタバコをよく吸う) で消費量が多かったのでこれは大きな圧力になり、タバコ利権の完全な廃止を勝ち取りました。
1905年にはついに民衆が武力蜂起し、イラン立憲革命が起こります。
1906年には国民議会が開設され、憲法制定と国民国家の宣言がなされました。
しかし1911年にイギリスとロシアに干渉されてこの革命は潰されてしまいました。
この後1921年にはレザー=ハーンという人物がクーデターを起こして実権を握り、ガージャール朝は1925年についに滅亡しました。
イランには新しくパフレヴィー朝という国がつくられました。
ただし、この先もイランはイギリスをはじめとした列強に振り回される歴史を歩んでいきます。
…こうして見るとバーブ教徒の乱のあたりの時期から、イランは「列強からの圧力」「無能な政府」「民衆の反抗」という構図が長く続いていたと言えるのではないでしょうか。
バーブ教徒の乱はその構図の始まり (あるいは象徴的なできごと) とでも言うことができると思います。
言い直せば、
「バーブ教徒の乱は、ヨーロッパ列強による外圧に対して有効な対応ができないイラン政府に対する民衆の反抗という構図の初期の象徴的なできごとであった。」
となると思います。(ここは私の所感ですが。)
以上です。
読んでくれてありがとうございました。
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